2章 ラストステージバトル



「おはよう!」
日曜日、快晴。お気に入りのワンピースで待ち合わせの時間の十分前に来た琴音は、すでに敦也が来ていることに驚いた。声をかけると、敦也は琴音の姿を見つめて破顔した。
「よう、琴音。早いな」
「敦也こそ。なんでもういるの?」
「ほんとうに今来たばっかだぜ?約束時間を守らないと怒られるんだ。啓介さんとか、夢美とかに」
「そうなんだ……」
開口一番夢美のことを言われて正直いい気分はしなかったが、それでも敦也に手を取られ、笑顔を向けられればそんな気持ちは霧散してしまう。
「行こうぜ。見たい映画があるんだ!」
「うん!」
琴音は笑顔で頷いた。


「絶対あそこは社長に報告に行くべきじゃなかったって!」
「俺もそう思う。でもいいじゃん、ハッピーエンドで」
「でもさ、あそこで女の子が死ななかったからそう言えるだけだと思うよ」
「オチは読めてたよな。絶対代わりのエネルギーがああだと思った」
映画帰り。琴音と敦也は、マックで御飯を食べながら、先ほど見た映画について話し合っていた。
「でも、前見た奴より全然良かったよ。前の映画全然救いようがなかったもん。見てからしばらく鬱だった」
「うん。あれは失敗だった。ごめん」
敦也は両手を合わせて謝った。琴音は笑って頷いた。
「いいよ、私も見たいっていったんだし。今回のは良かったもん」
「だよな!」
敦也はぱっと笑顔になった。
「これ、夢美も見たヤツでさ、多分俺の好みに合うからって、勧めてくれたんだ。さすがって感じだぜ」
「……そうなんだ」
琴音はちょっと鼻白んだ。最近敦也の話の端々に夢美が出てくる。敦也の「彼女」としては、嫉妬心この上ない。
「仲いいんだね」
「まあな!仲間だからな!今度の作詞は夢美がするんだぜ。多分」
「あれ?」
琴音は首を傾げた。
「敦也は書かないの?」
「一応書くけど、柄じゃねぇもん。多分夢美のになるはずだぜ」
敦也は舌を出した。琴音はくすくすと笑う。
「笑うなって」
「ごめん、条件反射」
「俺だって、お前の兄貴ぐらい良い詩が書ければなー。……そうだ!」
敦也は、良いことが思いついた子供のような表情で琴音を見た。
「お前の兄貴、今度の選抜ライブどの歌を歌うか知ってる?やっぱ「罪人」?」
「え?え?」
正直なところ琴音は空の歌う歌の曲名すら詳しくない。まして選抜ライブに歌う歌など知らない。
「最近全然話してないもん。知らないよ」
「そっかー。残念」
がっくりと敦也が肩を落とす。
「先に聞いてたら、別の方向で攻めるか、完全にぶつかるか決められるんだけどなー」
「……ごめん、本当に知らない」
琴音は恐縮した。敦也は残念そうに頬杖をついた。
「しょーがねぇや。やっぱ、俺の実力を出すか」
「……あ、あるの?そんなの?」
「……。こら。琴音」
二人は一緒に笑い出した。しかし、琴音は敦也がすこしかっかりした様子なのが気にかかった。
その日のデートはあまり会話が弾まなかった。


「じゃ、ここで」
「うん。今日はありがと」
夜の九時数分前。琴音の家のすぐ側の公園で、二人はお別れの挨拶をした。
「帰ったら、電話するね」
琴音が微笑む。
敦也も微笑んで、琴音の肩を抱いた。
琴音の体が固まる。
こ、これはもしかして……。
ゆっくりと、敦也の顔が近づいてくる。
わ、わ、わ。目をつぶった方がいいのかな。
琴音は慌ててぎゅっと両目をつぶった。
付き合って、一ヶ月。もしかしたらそろそろ、と思ったけど……。
琴音にとってのファーストキス。
イメージとしては、彼の家が良かったけれど、夜の公園でも申し分ない。
唇がそっと触れ合った。
そして、数秒で、唇が離れた。
琴音が目を開けると、敦也が照れくさそうに笑った。
「……じゃ、また。気を付けて、帰れよ」
琴音の心臓は早鐘のように激しく打っている。
「……うん」
かすれた声で、琴音が答えると、敦也は身を翻した。
ドッドッドッドッ。
心臓がバクバクしている。
思ったよりキス自体はあっけなかったが、キスをしたんだという意識が、琴音の頬に血を上らせる。
「うあ……。真っ赤かも、私。少し覚まさないと」
そう言って、ベンチのある方に歩いていく。
このまま帰ると、母親に何か言われそうだ。
まして、勘のいい空に会ったりしたら、何て言われることか。
琴音はベンチに腰を下ろした。夜の風が気持ちいい。しかし少し寒い。
やっぱりもう帰ろう。
座ってすぐ琴音は思い直した。
そのとき、後ろの茂みがガサリと音を立てた。
振り向く間もあればこそ。
茂みから飛び出してきた男が、琴音に抱き付いてきた。
「っっっっきゃー!!」
ズキン、と琴音の心臓が痛いくらいに飛び跳ねる。両手を振り回して、男の腕の中から逃げだそうともがく。
男は琴音の口をふさいだ。すごい力で、口を押さえられる。
残った片手は、琴音の右胸をつかんだ。
「っっっ!」
琴音は恐怖に全身の毛が逆立った。いやだ!
男の手に爪立てるが、効いたそぶりもない。
「騒ぐな!この淫売が!」
男が、怒ったような声で怒鳴る。
「俺のことが好きな癖して他の男といちゃつきやがって!そんなに俺の気を引きたいのか!」
狂ってる。琴音はめまいがした。倒れそうだった。
男は琴音のスカートの裾に手をかけ、中に手を入れようとした。
「!!!」
琴音の両目から涙が流れる。やめて、助けてと言おうとしたが、男に口をふさがれているだけではなく、恐怖から声が出ない。琴音は目をつぶった。
「!!」
その瞬間、何かが駆けてくる足音がして、乱暴に琴音の肩をつかまれた。そして琴音の頭の上で、ごき、と鈍い音がした。
「うぎゃあ!」
男の声がした。同時に、何かが倒れる音がして、ふ、と楽になった。
男の両手がはずれたのだ。琴音が涙に濡れた目を開けると、琴音は誰かの胸の中にいた。
荒い息をして、琴音を片手で抱きしめ、もう一方の手は男を殴ったままの堅い拳を握りしめていた。
「……そ、空……兄……」
空は、琴音を放し、自分の背に隠すと、倒れた男に歩み寄った。
男は座ったままじりじりと後じさろうとする。
空は、その胸ぐらを掴み上げた。
無言でもう一発殴る。男はもう一度吹っ飛んだ。
「俺の、大切な、……妹に……。何しやがる……」
怒りで、声が震えていた。空の目が座っている。このまま殺してもおかしくない位、空は怒っていた。
「そ、その女が悪いんだ!」
追いつめられた男は、裏返った声で叫んだ。
空が眉根を寄せる。琴音はびく、と震えた。
「俺のことが好きなくせに!!他の男といちゃついて、だから!」
「違……。わたし、そん、そんなひと、しら……っく、知らない」
琴音は涙混じりに否定した。
全身が震えている。怖かった。
空の足下で怯えている男の顔は、琴音の記憶にはなかった。
男は泡をとばしながら、叫んだ。「嘘付け!」
「毎日毎日俺に会いに店に来るじゃないか!」
「昨日だって来た!」
「必ずお釣りを出して、俺の手に触るじゃないか!にっこり笑って、ありがとうと言うくせに!」
琴音の足はもう限界に来ていた。
頭から血の気が引いて、倒れそうになる。
それを見た空は身を翻して琴音の側によって、その体を支えた。
空の顔が間近にある。心配そうに、憂いを帯びた表情で、琴音を見た。
「……大丈夫か?」
「……」
琴音は答えられなかった。安心したのと、混乱したのと、恐怖とが琴音の中をぐるぐる回っていた。
空が琴音を支えている隙に、男は脱兎のごとく立ち上がって逃げていった。
「あ!」
空がしまった、と言ったように男の逃げた方を見た。だが追う様なことはしなかった。
琴音は、震える声で言った。
「コンビニの、店員……」
「え?」
空が眉を寄せた。
「あの人、コンビニの、店員だ……」
琴音の家の近くの、茶髪の店員だった。
だが、断じて琴音はそれ以上の関係ではない。決して何か別のことを話したり、まして好きだと言ったりしたこともない。
「……怖い」
琴音はがたがた震えていた。
彼は一人で燃え上がり、琴音の気持ちが自分にあるものと思いこみ、琴音が敦也とデートをしているのを見て、怒り狂ったのだろうか。
だとしたら、それはすごく、怖いことであって……。
琴音は空の体にしがみついた。痛いくらいきつくすがりつく。
空は、黙って優しく抱きしめてくれた。空の手が、背中をさする。
あの男だと、気が狂うくらい恐怖しか与えなかったのだが、空の腕の中は暖かくて、安心した。
しばらく、黙って空に抱きしめられていると、だんだん落ち着いてきた。
すると、空の後ろから何かが駆け寄ってくる音がして、琴音はびく、と体を震わせた。
空は琴音を抱く力を強め、後ろを振り返った。
そこには、あのコンビニの店員ではなく……敦也がいた。
「何やってんだよ!」
空の腕を力任せに掴み、琴音を放させた。
「悲鳴が聞こえて……!あんた、琴音の兄貴だろ!!恥ずかしくないのか!こんなことをして!」
誤解している。
そう言おうと琴音が口を開こうとしたが、先ほどの恐怖で、上手く声が出ない。
敦也は琴音を背に庇い、空にくってかかろうとした。
琴音が口を開いて、無理に声を出そうとした瞬間、目の前の敦也が吹っ飛んだ。
空が殴ったのだ。
琴音はぽかんと、口を開けた。
敦也も空を見上げて、目を見開いている。何が起こったのか、理解できていないようだ。
「それは、こっちの台詞だ」
空の声は、怒りに燃える声を、意志の力で押し殺して、唇をかみしめた。
「なぜ琴音を一人にした。こんな、暗い夜道で」
空がこんなに怒っているのを、琴音は初めて見た。
「俺だったら、決して琴音を泣かせはしない。誰にだって傷つけさせはしない」
空の瞳が強い意志を持って敦也を睨み付けた。
「命に代えても守ってやる。全てのものから。それほど、琴音が大事なら、守れるはずだ。お前にそれが出来ないなら、琴音は、お前には渡さない!渡せない!」
狂おしいほど、切ない瞳で空は言う。
何よりも大切なのだと。
何よりも愛しているのだと。
声に出すことはしないけれど、空にとって、琴音を失うことなど耐えられないくらい。
琴音を愛しているのだと。
「……」
敦也は黙ってうつむいた。
空は、琴音の手を引いた。
「……帰るぞ、琴音」
琴音は黙って頷いた。
空の真剣な声が琴音の心の中に染み通ってくる。
兄は言った。妹が何よりも大切だと。
……それ以上の深い意味はまだ琴音には読みとれなかった。

家に帰ると母親が心配した顔で出迎えた。
「さっき、金田って男の子から電話があったのよ。琴音は帰っていますかって。帰ってないって言ったら切れちゃったけど、どうしたの?琴音。何かあったの?」
琴音は青ざめた顔で首を振った。空が「かあさん、ちょっと……」と言って、母親を居間に追いやる。
空はまだ琴音の手を握っていた。琴音は空に手を引かれるまま、バスルームへと歩いていった。
「琴音、シャワーを浴びるといい。その間に母さんに説明しておくよ」
琴音は黙って頷いた。先ほどの恐怖はまだ、去っていなかった。
「……じゃあ」
言って空は背を向けた。琴音はまだ話が出きるほど、回復してなかったが、心の中で感謝した。
琴音はバスルームのカーテンを閉め、服を脱いだ。
二カ所、赤くなっていた。胸と、肩。あの男に乱暴に捕まれた胸が、擦れて赤くなっていた。また、空の手の後が、肩に出来ていた。乱暴に引き寄せられた、あのときだ。
入浴中もヒリヒリして痛かった。
上がると、下着と服が出ていた。お母さんが用意してくれたのだろう。
二階に上がる。今は、何だか恥ずかしくて、母親には会いたくなかった。
「琴音」
琴音の部屋の前に空がいた。
「空兄……」
「謝っておきたくて……」
空は悲しそうに微笑んだ。
「さっきは、ゴメン。お前の彼氏、殴っちゃって……」
「……ううん、いいよ」
正直言ってそんなこと忘れていた。琴音は部屋のドアを開けた。
「空兄、中で、話そう?」
今夜は眠れそうにない。眠るまで空についていてもらおう、と考えて、琴音は空を部屋に招き入れた。空は黙って入ってきた。
琴音はベッドに、空は絨毯の上に座った。
「大丈夫か?琴音。駆けつけるの、遅くなってゴメンな」
「うん、なんとか。もう平気」
シャワーを浴びて落ち着いた。
「空兄は、なんで……?」
空は琴音の言いたいことを察したのか、「澪の家から帰る途中、お前の悲鳴が聞こえた」と言った。
じゃああのキスシーンは、見ていないのか、と琴音はホッとした。空に見られるのは嫌だった。恥ずかしいからと言うだけじゃなく、もっと、別の意味で。
「お前が襲われているのを見て、心臓が止まるかと思ったよ」
「空兄が言うと、しゃれにならないよ」
空は微笑んだ。
「あの男に関しては、俺に任せておけ。琴音はもう、気にしなくていいよ」
「うん……」
琴音は頷く。
「あの人、何で私があの人のこと好きだなんて勘違いしたんだろう……」
「……。さあ、な。琴音が好きだったんだろう。好きで好きでたまらなくて……。でも現実には、お前は他の奴のもので……」
空の声音には寂しげなものが混じっていた。
「耐えられなかったんだろうな。きっと」
ねにか、別の人の話でもしているかのようだ。琴音はふと、聞いてみた。
「空兄だったら?」
「え?」
「空兄の好きな人に、恋人がいたら、どうする?」
空は、琴音を凝視していた。
凍り付いたかのように、目を見開いて。
ぎこちなく身動ぎして、空は小さく首を振った。
「……どうもしないさ。俺は、耐えるよ」
「奪ったりしたいとは、思わないの?」
琴音が空とこんな話をするのは初めてだ。興味津々で琴音は空に尋ねる。
「そいつが、俺の好きな……好きな子を本当に守れるなら、何もしない。むしろ、そいつとうまくいくよう、手を貸すさ」
空は、琴音から目をそらして言った。
「それで生じる俺の痛みくらいなら、押さえるよ。俺の心だ。押さえきってみせる。好きでも何でもないふりくらい、できる」
もしかして空兄、澪さんのこと言っているのかな。琴音はそう思った。
「でも時々……。ほんとに時々、俺の心がどうしようもなく荒れ狂うときもある。好きで、たまらなくて、眠れない夜を過ごしたことも、あるよ」
空は辛そうだった。
「だからそう言うときは黙って外に行く。空を見上げると、落ち着くんだ。自分の名前のせいかな?」
空はやっと笑った。
「そんなときは触れないで欲しい。琴音。俺が自分の心を抑えているときだから。そして、もう二度とこんなことは聞かないでくれ。正直、辛い」
空は今、好きな人がいるのだ。琴音は直感した。
そしてその好きな人には、恋人がいる。空は今、黙って耐えているところなのだ。
琴音は頷いた。空が微笑んで、立ち上がる。
「お休み。琴音」
「あ、待って!!」
琴音はもやもやとした気分のまま空を引き留めた。今日は興奮して眠れそうにない。
「お願い、私が眠るまで側にいて、手ぇ、繋いでて」
琴音が甘えた声で言うと、空は苦笑して承諾した。
「今夜だけ、眠るまでだけだよ」
「うん!」
琴音は喜んで、ベットに潜り込むと、右手を出した。
傍らに座った空が、その手を握ってくれる。
その表情は、先ほどのように曇っていた。
琴音は空に手を握って貰って安心したのか、すぐに眠気が来た。
空は、隣で窓の外を見ている。
琴音は、囁くような声を出した。
「……空兄……、澪さんが好きなの……?」
空が驚いて身動ぎする気配がした。
図星か、と、琴音は気分が落ち込んだ。
それ以上何も言えずに、琴音は顔を壁の方に向けた。
「……お休み……」
空からの返事はなかった。


月曜日。朝。
起きるともう隣に空はいなかった。
階段を下りていくと、母親が心配そうに私を見た。
「おはよう、お母さん」
琴音はぎこちなく笑って見せた。
母も、特別何も言わず、食事の用意をしてくれた。
空から聞いて、あえて何も言わないのだろう。
そんな心遣いに感謝しながら、椅子に座ると、ふと、空がいないことに気付いた。
「お母さん、空兄は?」
「ああ、先に行ったわ」
母親はマーガリンを塗りながら答えた。
「なんで?」
「……。コンビニに、行くんだって」
あ、と思った。
一体どうするのだろう。
琴音は不安になって、食べるものも食べずに立ち上がった。
「行って来る!」
「え!?どこに行くの?」
「……コンビニ!!」
母親は不安そうに眉根を寄せた。
琴音は安心させるために笑って見せて、靴を履くのももどかしく、玄関のドアを開けた。
「行ってきます!」
今日も、快晴だった。

家から歩いて一分、すぐコンビニにつく。中に入ろうとして、躊躇った。
あの男がいたらどうしよう。
外をうろうろする琴音。すると中から、見覚えのある顔が出てきた。
空だ。
「空兄!」
琴音は駆け寄る。空はちょっと驚いた顔をして、微笑んだ。
「なんだ?琴音。来なくていいって言ったろ?」
その笑みには昨日のような寂しさはなかったけれど、琴音はちょっと不意をつかれてたじろいだ。
「う、うん。でも、空兄……。空兄が心配で」
空は琴音の頭をくしゃりと撫でた。
「大丈夫だよ。今日中に話を付けるから」
「昨日の人、いたの?」
琴音は怯えたようにコンビニの方を見た。数歩後退する。
「いや、いなかったよ」
空は安心させるようにまた、琴音の頭をなでた。
「じゃ、どうやって話を付けるの?」
「店長さんに、名前や住所を聞いてきた。これから行ってくるよ。琴音は学校に行きなさい。そろそろ時間だろ?」
「嫌!心配だもん。そんなとこ行かなくていいよ、警察に行こうよ!」
琴音は力一杯首を振った。怖い。このままにしておくのも怖いが、空があの男に傷つけられたりなんかしたら、たまらない。
「大丈夫、澪を連れて行くから」
いたずらっぽく空は笑った。琴音は胸がズキンと痛んだ。
「澪は合気道の段持ちでな。遠城を連れて行くより、よっぽど安心だよ」
「でも……」
もし相手が逆上して刃物でも持ち出したらどうするというのだろう。
「心配しないで。さ」
と、琴音は学校の方角に背を押された。
「……」
正直いって、学校になんて行っている気分ではない。
しかしなんだかんだ言いつつ、兄は言い出したら決して聞いてくれないだろうと思った。「……行ってきます」
後ろを振り返り、振り返り、歩いていく琴音に空は苦笑して手を振った。
心配しながら歩く琴音の足取りは重かった。


「おはよう、琴音」
「……。……え、ああ、おはよ、奈月」
始業五分前。琴音は席に着いているのは珍しいと言っても過言ではない。
「早いね、琴音」
「……。……え、ああ、うん。たまにはね」
琴音はすっかり上の空だ。早く帰りたいと叫ぶ体を、机の上に繋ぎ止めておくことは辛かった。
空は何をしているだろう。無事だろうか?
また、澪は……。
澪には、恋人がいるのだろうか。
そして空は、やっぱり澪のことを。
「琴音ってば!」
怒鳴られてようやくまだ奈月が話しかけていることに気付いた。
「ご、ごめん、どうしたの?」
「それはこっちの台詞よ!さっきから呼んでるのに、返事しないんだもん。今日、遅刻してないのに何で先に来ちゃったの?」
そう言えばすっかり忘れていた。
「ゴメン、今日別の道を通ったから……」
すっかり忘れていたとは言いづらい。奈月は苦笑して頷いた。
「待ってたのにな。明日はちゃんと来てね」
「うん、ごめんね」
謝ると、琴音はまた窓の外を見た。
……空兄は何をしているのだろう。そしてまた、澪さんは。
あの男は、逆上したりしないだろうか。
……空兄が殺されたりなんかしたら……。
琴音はぶるっと身震いした。縁起でもない。
授業が終わるまでの時間がじりじりと過ぎていった。
最後の授業の終了のチャイムが鳴ると、とたんに琴音は鞄を持って走り出した。
「あ、琴音!」
「ごめん、奈月!急ぐから、また明日!!」
後ろも振り返らずそう叫ぶと、奈月は教室を飛び出した。

「ただいまっ!」
「お帰り、琴音」
家に帰ってすぐに、母親に迎えられる。
安心したように笑顔になって、母親は言った。
「空なら、二階よ」
なぜ自分の聞きたいことが分かったのだろう。驚きながらも琴音は階段を駆け上った。
「空兄!!」
「やあ、お帰り、琴音」
「お邪魔してます、琴音ちゃん」
部屋で、二人はのんびりお茶を飲んでいた。
琴音は安堵のため息をついた。
「良かった……。無事だった。心配したよ、空兄」
「大丈夫だよ」
空は微笑んだ。
「無事じゃないのはむこうだものね」
澪がおっとり微笑む。言っていることは物騒きわまりないが。
「どうだったの?」
と、心配そうに聞く妹に、空と澪は事の顛末を聞かせてあげた。
曰く、その男の住所に行ったこと。
行ったら鍵がかかっていて、大家に言って開けて貰ったこと。
部屋の中にはいろいろな写真があって、琴音の写真もあったこと。
その時男が帰ってきて、澪と空が懇切丁寧に『説得』したこと。
以後二度と姿を見せないと約束させたこと、等々。
琴音はぽかんと口を開けた。
「空兄……澪さん……」
何も言えなかった。
澪は微笑んだ。
「大丈夫よ。犯罪は犯してないわ。多分」
「琴音が心配することは何もないよ。もしまたあの男が視界に入ったら、お兄ちゃんに言ってごらん」
ぷるぷるぷるぷる。
琴音は首を振った。
「多分……。二度とないとおもう」
「そうかな?」
空は首を傾げた。琴音は頷き、重ねて言う。
「もう、この町出てると思う」
どんな脅され方したのか想像に余りうる。
妹は引きつった笑いを浮かべた。
「あ、ありがとう、お兄ちゃん、澪さん」
二人の悪魔は天使のような笑顔で、にっこり笑った。
「どういたしまして、琴音のためならね」
「また何かあったら、呼んでね」
琴音は引きつった笑顔で、頷いた。



夜。
夕飯も食べ終わり、琴音は部屋の中で電話とにらめっこをしていた。
かけようか。かけまいか。
意を決して、琴音は受話器を取った。
プルルルル、プルルルル。
呼び出し音が続く。
十コール以上したとき、ようやく相手が電話に出た。
「……もしもし」
「……敦也?私、琴音」
「ああ……」
言ってお互い沈黙した。
琴音は何から話していいのか分からなかった。昨日、せっかく助けに来てくれた敦也を、空が殴り飛ばしたあげく、放って置いてきてしまった。
とりあえず、何か話さなくては。
そう思って、琴音は口を開くと、先に敦也が話してきた。
「あのさ、昨日のことだけど……」
「ごめんね。心配してきてくれたんだろうけど、お兄ちゃんが殴っちゃって」
「うん、一体何がなんだか分からなかった。説明してくれよ」
「うん……」
琴音が一部始終を話すと、電話の向こうでしばらく沈黙が続いた。
「敦也?」
「うん……。そいつが、撃退されて良かった。助けられなくて、ごめんな」
「ううん、大丈夫だよ。お兄ちゃんが助けてくれたし」
「……。そのことなんだけどさ」
敦也は歯切れの悪い声を出した。
「空さんて、ほんとにお前の兄貴?」
「何言ってるの?当たり前じゃない」
正真正銘、産まれた頃からの付き合いなのだ。別物であるはずがない。
「空さんは、お前のことが好きだよ」
「敦也!?」
何を言っているのか分からない。琴音は思わず叫んでしまった。
「何を言ってるの?お兄ちゃんが私のことを大切に思ってくれてるのは前からだけど、それはもちろん兄弟愛だよ!」
「それは違う。空さんのあの目は、敵を見る目だったぜ。あれ、嫉妬してた。お前の恋人に、嫉妬している目だった。間違いないよ。空さんはお前のこと妹以上に見ている。愛してるはずだ」
「敦也……」
琴音は困惑した。
「もしかしたら、少しくらい嫉妬が混じってるかもしれないけど、それはしょうがないよ。お兄ちゃんシスコンだもん。それに、私のことが好きなら、敦也に紹介するはずが無いじゃない」
空に誘われて、三ヶ月前にライブに行くと、隣の席に敦也がいた。食い入るようにライブを見ていたのが何か印象に残り、琴音がしばらくして空にそのことを言うと、空がその次の日、ライブ後の夕飯に琴音を呼び出した。行くと、そこにはTRICK・OUTのメンバーと一緒に敦也がいたのだ。
実は、ライブで何度か会っていて、知り合いだったらしい。
その時琴音は敦也がバンド活動をしていたことを知り、見に行く約束をした。
それから急速に二人は接近し、つき合い始めたのだ。
「……それも、そうだよな」
受話器の向こう側で、敦也がため息をつく声が聞こえた。
「わりぃ、俺、考えすぎたみたい。空さんがシスコンなのは前々から知っていたけど……。あんなに激しいとは思っても見なかった」
「ゴメンね……」
琴音は恐縮して謝った。
「あれじゃ、琴音に言い寄る男は大変だよな」
「そうでもないよ。空兄は、あんまりどうこう言ってこないよ。最近特に、何も言わない。昔は、男の子と一緒に歩いていたら、結構心配してきたけど」
「……大人になったって事なのかな?」
「うん、きっとそうだよ。あと、きっと敦也が認められたんじゃないの?」
琴音はふふっと笑う。
敦也も笑った。
そして二人はいつもの他愛ない話をして受話器を置いた。
ベッドに潜り込むと、琴音はウトウトと先ほどの話を思い出していた。
いつから、兄は何も言わなくなったのだろう。
思い出せない。
何か、あった気がするのだが……。
そんなことを考えながら、琴音は眠りに落ちていった。
隣の部屋では、空が夜空を見上げていた。
押さえられない思いを抱えて……。


「ついに明日がライブだね。空兄」
「うん。今日は遅くなるから、澪ん家に泊まるよ」
今日はクリスタル・フェスタの二週間前の朝である。
最近とみに兄も敦也も忙しそうで、琴音はぜんぜんかまって貰ってない。
でも明日で一応一区切りつくのだそうだ。
そうしたらまた少しは暇になるのだろう。
そう思って、琴音は元気な声でテーブルの向こう側の空に話しかけた。
「大丈夫?何だか顔色悪いよ。空兄」
「何でもないよ」
空は妹に微笑みかける。でもやはりその笑顔でさえも疲れていた。
「最近練習ばっかで、全然休まないからだよ!もうちょっと、自分を大事にしてよね!」
琴音が怒ると、空は困ったような、悲しそうな顔で微笑んだ。
「分かってるよ、大丈夫。琴音も……」
「ん?私は元気よ。もちろん」
琴音はにっこり笑って力こぶをつくって見せた。
空は少し笑うと席を立った。
「もう行くよ。ごちそうさま」
「空兄!もうちょっと食べなよ。今に骨と皮だけになっちゃうよ」
「平気。じゃ」
そういいおくと、空は振り返りもせずに、玄関に向かった。
「……」
最近空が冷たいというか、嫌によそよそしい気がする。
琴音はしゅんとなった。
「私何かしたのかな……」
思い当たる節はない。
もそもそと御飯を食べると、琴音も玄関に向かった。
気分はすっかり沈んでいる。
靴を履き、外へ出ると、とたんに何かにぶつかりそうになった。
「!?」
あわてて、見上げると……それは空だった。
「どうし……空兄!?」
「……」
空は慈しむような目で、琴音を見た。
「……一緒に行こうと思って。途中まで道のりが一緒だろ?」
「……!!」
ぱぁあ、と琴音の表情が明るくなる。
「うん!やった、嬉しい!」
今にも飛び跳ねそうな琴音に苦笑しながら空は琴音のバックを持った。
「行くぞ」
「うん!!」
琴音は飛び跳ねて喜んでいた。
空はそんな琴音を横目で見て、気付かれないように、ため息をひとつ、落とした。







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